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ステパノは

石打ちにあう苦しみの中で、ステパノは、イエスキリストと同じ祈りをしている。

特別なものが注がれていた。聖霊。

パウロの場合も、、、

天的な事で神様に触れられることは、特別な力です。だから、ツアーでも、祈ったり主に触れられている経験は大切な事。

天を見ていた

天の現実をしっかりと見つめていた。

天的なものをはっきりと、捉えていた。

天的な事をつかんでいることは、私達の人生を変えてしまうくらい大きな事である。

メッセージ

テモテ小林さんのメッセージ を。

みことばはから語られます。

“しかし、聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見て、
こう言った。「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」”
使徒の働き 7章55~56節

ペテロ・バプチスタ

ペテロ・バプチスタは、最後に槍を受けることになりました。それは執行人たちが、25人の仲間たちが殺されていくのを見れば、信仰を捨てるかもしれない、と考えたからです。しかし、ペテロ・バプチスタは、全く違うことを思っていました。

それは、全員が誰1人信仰を捨てることなく最後まで主を愛して殉教することを願っていたのです。そして、それを自分の目で見届けたいと祈っていたのです。 この祈りはきかれ、仲間たち全員のその姿をしっかりと見届けてから天へ帰ることができました。主は彼の祈りにこたえてくださいました。

パウロ三木

パウロ三木は十字架の上から 最後まで福音を語ります。

「私の言うことをどうか信じてください。この方、イエスキリストによる他には救いの道は無いことを確信を持って申し上げます。」

パウロ三木は、死刑執行責任者であり自分の旧友である、寺沢半三郎を見て、

さらに役人、執行人を見ながら、

「私は死刑を命じた太閤様を赦します。半三郎を赦します。役人を赦します。執行人を赦します。なぜなら、イエスキリストが私の罪を十字架で赦してくださったからです・・・・

・・・・・私はだれをも恨んでいません。ただ私が願っているのは、全ての日本人がキリストを信じて救いを受け、キリシタンになられることです。」

パウロ三木は最期に「赦し」の説教を群衆に語りました。

 十字架の上にあったのは賛美とゆるし、でした。

パウロ三木は、京都で捕らえられてから、ずっと福音を語り続けてきました。

そして、この十字架の上での説教が彼にとっての最後の説教となりました。

アントニオ少年と、ルドビコ少年

2人は、共に十字架上で賛美する約束をしていた。

詩篇113篇を賛美しました。「子らよ、主をほめたたえまつれ」その時、4000人もの見学人は、思わずともに賛美をしたそうです。 天国が降りた様な天の臨在があらわされました。

ルドビコ茨木少年

ルドビコ少年が自分の十字架に喜んで走り寄るお話。

西坂の丘で 「私のつく十字架はどこですか?」丘を駆け登ると、12歳のルドビコ少年は自分のつけられる、一番小さな十字架を抱きしめ、頬ずりし口づけしました。

彼は天国へ行く喜びをはっきりともっていた。

「パライソパライソ(天国)」と言って天を見上げつつ凱旋していった。

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